雛祭り
あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日はたのしい ひな祭り
節分を過ぎると、切り替わるように流れ出す雛祭りの歌。
私はそれが嫌だった。
年に一度の女の子のお祭り。
友達の家では、五段飾りや三段飾りのような豪華な雛飾りでなくても、桃の花を飾ってお祝いの膳を囲む。
「結子(ゆうこ)ちゃん家は?」
「私の家?私の家はね・・・」
お父さん、白酒どうぞ。
お母さんのちらし寿司、とっても美味しいね。
お兄ちゃんはおめでとうって、雛あられをくれた。
ぼんぼりの柔らかい灯りが金屏風と桃の花を照らして、凛々しいお顔のお内裏様。
優しいお顔のお雛様・・・それが私の雛祭り。
ずっと夢見ていた。
私の家でお雛様が祭られることはなかった。
三月三日は命日。お坊さんをお呼びして、お経を上げていただく日だった。
物心のつく頃にはもうお坊さんに頭を撫でてもらっていたので、小さい頃はお参りの方が当たり前だと思っていた。
私がぐずるのも、お経が退屈だったから。
ぐずる私の面倒を見るのは、父だった。
父はけして怒ったりはせず、お経が終るまで私を膝の上に乗せて、甘えさせてくれた。
そんな私とは反対に、六つ違いの兄は母の横でいつもきちんと正座していた。
学校へ行きだすと、友達の間でお雛様のお祝いの話を聞いて、自分の家の方が違うことに気が付いた。
最初はどうしての疑問から、小学校の高学年になると、お祝いそのものよりもお雛様人形を持っていないことが恥ずかしかった。
「ねぇ、お母さん・・・。結子だけだよ、お雛様持ってないの」
「結子ちゃん、四月になったら中学生でしょう。いつまでも自分のことを名前で呼ばないの。私と言いなさい」
母はお雛様については何も言わなかった。私の言葉使いだけを注意した。
その頃には私も命日の意味は理解出来ていたし、無理を承知の我が儘という自覚もあった。
―三月三日は、おばさんがお亡くなりになった日なの。我が家ではご供養の日なのよ。わかるわね、結子ちゃん―
私にとっては顔も知らないおばさんだったが、若くして亡くなったと聞かされれば子供心にもそれ以上は言えなかった。
せいぜいお雛祭りの前後一日二日、拗ねて過ごす程度だった。
いつもならそんなに強く食い下がることはなかった。
「ちゃんと聞いてよ!結子、お雛様のこと言ってるんだよ!」
「・・・結子ちゃん?どうしたの、お雛様は家では出来ないって知っているでしょ?」
「知ってるよ。だからお祝いはいいから、お雛様買って!結子だけだもん、持ってないの」
小学校六年生の秋に、初潮を迎えたせいだろうか。
明けたその年の春は、とても不安定な気分だった。特に女の子という意識に、異常にこだわっていたようにも思う。
そんなところにお雛様の時期を迎え、友達のひと言がさらに追い討ちを掛けた。
―お雛祭りって、女の子の成長を願うお祭りなんだよ。
お祝いは仕方ないとしてもさ、お人形くらい買ってもらってもいいと思うよ―
「祭らないのにお雛様人形は買えません。
それに特別なお祝いなんかしなくても、お母さんいつでも結子ちゃんの成長を願っていますよ」
「うそ・・・願ってたら、お雛様人形買ってくれるはずだもん」
「・・さあ、いつまでもそんなことばかり言ってないで、法事のお手伝いをしてちょうだい」
母は全く取り合わなかった。
むしろ私のイライラに気が付いたようだった。
見透かされたように跳ね除けられたことが、余計私を頑なにさせた。
「お雛様人形買って!そしたらお母さんの言うこともほんとだって思うし、お手伝いもする!」
「勝手に言ってなさい」
普段ならそこまで言わない私の我が儘に、母は叱るよりもひとりにさせた方がいいと判断したのか、喚く私を放って部屋を出て行こうとした。
しかし不安定な私は、もう自分の気持ちを制御できなかった。
「やだ!そんな顔も知らないおばさんの命日なんて、結子、関係ないもん!」
「結子!!」
滅多に声を荒げることのない母の声に、私よりも兄が驚いて居間に飛び込んできた。
「どうしたの!?母さん・・・結子」
「お兄ちゃん・・・。だって、結子、お雛様欲しい・・・」
私は母の剣幕から身を避けるようにして、兄にしがみついた。
兄は優しかった。穏やかなところは父に似て、長男らしくしっかりしたタイプの人だった。
「ああ・・そうだね。家(うち)以外は、お雛様一色だからなぁ。結子は、女の子だもんな」
既に半分泣きべその私に、兄は少し困った顔で苦笑った。
「お兄ちゃん、構わなくていいから。我慢しなければいけないことは、その時々で誰にでもあるの。
結子の我慢は、いまなのよ」
それじゃ、いまはいつ終るの・・・心の中で反論するも、もう口に出す勇気はなかった。
「結子、お母さんにごめんなさいは?」
兄が庇うように私の肩に手を廻し、指先に微小な力を込めて私を促した。
優しい兄の助け舟に、ぽろりぽろりと涙が零れたが、ごめんなさいの言葉は出なかった。
「いいのよ、お兄ちゃん。結子が謝るのはお母さんじゃないわね。
お父さんが帰って来られたら、ご仏壇の前で謝りなさい」
おばさんは父方の親戚の人と聞いていが、姉なのか妹なのか、それとも従妹なのか。
まだ子供だった私にはその関係について、そこまで考えは及ばなかった。
ただ毎年必ず法要を行うのだから、身近な人であったのは間違いないはずだった。
それを思うと、母がこれだけ怒ったのだから、如何な穏やかな父でもきっと怒るに違いない。
普段あまり怒ることがない母の怒りを目の当たりにしただけで、半べそをかいてしまったのだ。
私は父の怒りを想像しただけで、怖くて泣き出してしまった。
「やだぁっ・・うえぇんっ・・・お父さんに言っちゃやだぁ!・・・うわあぁぁんっ・・!」
「結子、ばかだなぁ、父さんは怒らないよ。母さんも、ほんとうは怒りたくないんだけど、怒らなくちゃいけないんだ・・・」
私に向けられた言葉のはずなのに、兄は真直ぐ母の方を見ていた。
僅かの間の後、息が洩れ出るように兄の名前を呼ぶ母の声がした。
「・・・由浩(よしひろ)」
私は兄にしがみついたまま、自分を弁護するので精一杯だった。
「お兄ちゃん・・・ぐすんっ・・・結子ね・・お雛様が欲しかっただけなのぉ・・・」
「うん、わかってる。・・・ごめんな、結子」
ポンと兄が私の頭の上に手を置いて、謝った。
何故兄が謝るのか、到底私にわかる道理がなかった。
涙を擦りながらも怪訝な顔を兄に向けた。
「三月三日は、僕を産んでくれた母さんの命日なんだよ」
あまりにも兄がすんなりと話すので、驚きよりも事実がすぐには飲み込めなかった。
「由浩!あなたいつからそれを・・・」
母の驚き混じりの言葉は、途中からうろたえるように語尾が続かなかった。
お兄ちゃんはお母さんの子供じゃないってこと・・・?
「母さん、ごめん。いつからって、けっこう前からかな・・・なんとなくわかるよ。
黙っていてもよかったけど、それだと結子がいつまでも可哀相だろ」
「お兄ちゃん・・・」
「お雛様したいよな、人形欲しいよな。いままで我慢させてごめんな。
結子ももう中学生だ。僕からのお願いだよ、わかって欲しいんだ」
今度は、兄は私を見て言った。
お雛様が出来ないのは兄のせいではないのに、ごめんと私に謝って。
私は言葉を返せなかった。
返すどころか事態の大きさにぶるぶると震えてしまって、それまでぎゅっと握っていた兄の腕を離すと、一目散に母に抱きついた。
「うわあああんっ!!ああんっ・・!!おか・・おかあさ・・んっ・・!!」
兄の私に対する優しさが苦しくて、傍にいられなかった。
泣き縋る私を抱きしめながらも、母の視線は兄から離れることはなかった。
「由浩、だけどあなたは母さんの子よ・・・」
短い言葉故に、母の愛を知る。
「当たり前だろ、母さん」
兄は笑顔で即答した。
私はひっくひっくとしゃくり上げながらも、母の安堵の息を全身で感じていた。
その夜、兄と私は仏間に呼ばれた。
仏間に入ると、父が正座して私たちを待っていた。
父はまず、兄と私を前にして
「由浩、結子、二人とも大きくなったね」
と、目を細めた。
そして母が席に着くと、我が家の三月三日について語り始めた。
父は再婚だった。
最初の妻は、兄が二歳の時病気で亡くなった。
毎年三月初旬は寒の戻りで雪のちらく日が多かったが、兄の母が亡くなった三日は、麗らかな春の日差しが病室に差し込んでいた。
その一年後、現在の母が後妻に入り、三年後私が産まれた。
兄とは異母兄妹だった。但し兄の記憶には、現在の母しか残っていなかった。
三歳頃の微かな記憶の隅に、ぼんやりと抱き上げられたことを覚えていると兄は言った。
母は「まぁっ!」と、小さく驚きの声を上げ、嬉しそうに父と顔を見合わせた。
乳飲み子を抱える父との結婚。生さぬ仲の母となる決意。
幾多の諸事情は母の胸の内に、父も同様に口にすることはなかった。
父は兄の母の存在についてのみ、はっきりと明かした。
「由浩には、先に話しておいた方が良かったのかな。結果として、お前から言わせてしまったね」
「父さん、僕はこれで良かったと思うよ。お雛様を我慢していたのは結子だけじゃない。
僕もずっと我慢していたんだ。三月三日が来るたびに言いたかった・・・」
―お兄ちゃん、ちゃんと手を合わせなさい―
―お兄ちゃん、きちんとお膝を揃えなさい―
―お兄ちゃん・・・・・・・・・・・・・―
―お母さん、どうして僕ばっかり言うの・・・。結子だってちゃんとしてない・・・―
―それじゃ、お兄ちゃんがお手本になってあげなさい―
三月三日のお参りのときは、母はいつも兄に付きっきりだった。
兄も昔は、よく母にお小言を言われては拗ねていた。
それがいつしか母のお小言もなくなり、何を言われなくとも兄は母の横で静かに手を合わすようになっていた。
母の厳しさは、年を経る兄の心の中で感謝に変わって行った。
「母さん、ありがとう」
お内裏様と お雛様
二人ならんで すまし顔
お嫁にいらした 姉様に・・・
「よく似た官女の 白い顔〜・・・♪」
去年生まれた娘の初節句に、父母が贈ってくれたお雛様の前で、定番の歌を口ずさみながらお雛祭りの準備をする。
「お〜い、結子!お義父さんたち見えられたよ」
あれから・・・
小学校六年生の卒業の年、家族で話し合った時から、私はもうお雛様のことで親を悩ますことはなくなった。
三月三日は兄の横に並び、兄と同じように手を合わせて、お参りをした。
それ以外はごく普通の日常生活の中で月日は流れ、兄が結婚しその三年後に私が結婚した。
結婚が決まった時、父は遠くを見つめる仕草で独り言のように呟いた。
「我が家は三の数字に縁があるねぇ・・・」
私が結婚して家を出るのと入れ代わりに、兄夫婦が両親と同居することになった。
兄夫婦には一人娘がいたが、この娘もまたお雛様が出来ないのかと思うと、少し心が痛んだ。
そして私に娘が生まれ、あくる年の春に父母から五段飾りの雛飾りが贈られて来た。
それは兄の母が、父と結婚するときに持って来た物のひとつだった。
男の子だったら私の楽しみに、女の子が生まれたら一緒に楽しみたいと言っていたという。
その母が亡くなって、一度も飾られることのなかった雛飾り人形。
箱を開けて一体一体取り出すごとに、驚きや感嘆に心が震えた。
全く色褪せていない着物や飾り付け道具。歌のとおりのすまし顔のお内裏様とお雛様。
金屏風は黄金に、五人囃子の笛、太鼓、楽器装飾の何と精密に出来ていることか。
祭らなくとも父と母が、毎年どれだけ思いを込めて手入れをしてきたか。
手に取ったお雛様人形の小さくて赤い口元は、まるで菩薩のような微笑を称えていた。
「お父さん、お母さん!遅かったじゃないの!・・・お兄ちゃんたちは?」
「由浩たちは、法事の後片付けをしたらすぐ来るよ」
「結子、あなたお雛様に夢中で真由(まゆ)ちゃんのこと、慎一(しんいち)さんにばかり見させているんじゃないの」
こんな日が来るなんて、想像もつかなかった。
昼間は実家の法事に出席して、夜は私の家で両親と兄一家を招待してのお雛祭り。
昔言われた、母の言葉が思い出された。
―我慢しなければいけないことは、その時々で誰にでもあるの。結子の我慢は、いまなのよ―
母はいつかこんな日が訪れるのを、予想していたのだろうか。
いや・・・それは予想などではなく、母の心の奥深く抱き続けていた思いだったのだろう。
娘を育て嫁がせて、いつかお雛様をさせてやりたい・・・母となって初めて思い及ぶ母の気持ち。
お雛様を前にして、孫の真由を抱いてあやす母の横顔には、初老の入り口が差し掛かっていた。
「結子おばちゃーん!」
兄夫婦が到着したようだった。玄関から兄夫婦の一人娘、結実(ゆみ)の声がした。
「結実ちゃん!いらっしゃい!こっち!こっち!」
「わあっ!きれい!」
「おおっ、ほんとだ。良かったな、結子、結実。それにしても大きいなぁ!」
後からついて入って来た兄は、お雛飾りの大きさに驚いていた。
「結子ちゃん、ありがとう!結実は幸せね。もちろん私もだわ」
「お義姉さん、ありがとうだなんて・・・ゆっくり楽しみましょう。私たちのお祭りよ」
金の屏風に うつる灯を
かすかにゆする 春の風
すこし白酒 めされたか
あかいお顔の 右大臣
結実ちゃんが嬉しそうにお雛祭りの歌を唄っている。
誰に教えてもらったのか、一番だけではなく二番三番と唄っていた。
テーブルには白酒と、母が作って持って来てくれたちらし寿司。
お父さんがいてお母さんがいて、お兄ちゃんがいる。
それが私の夢見ていたお雛祭りだったけれど、現実は違った。
そこに夫がいて、真由がいて、お義姉さんがいて結実ちゃんがいる。
もっと素晴らしい、みんなの想いの篭もったお雛祭りだった。
着物をきかえて 帯しめて
今日はわたしも はれ姿
春のやよいの このよき日
なによりうれしい ひな祭り
結実ちゃんの歌声が、春の宵に響き渡る。
「結子ちゃん・・・ずっと我慢させて、ごめんなさいね」
母は真由を抱きながら、小声で囁くように謝った。
長い年月は、我慢することの意味を私に教えてくれた。
兄がそれを感謝と感じたように。
「お母さん、ありがとう」
※ 文中:うれしいひな祭り
※ 作詞:サトウハチロー
※ 作曲:河村光陽
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